行者の覚悟

密教にはヒンズー教由来の神々や日本の神祇や土俗の神までを護法神として扱うのは何故か。我々とはやや異なりますが神霊にも憂苦があります。それを神祇灌頂で瀉瓶をして仏弟子として迎え入れる。日本に於いては祈願礼拝の対象とされていますがこれが余り良くない。チベット密教では行者から血脈を授かり、弟子として眷属の働きをするばかり。この辺は多少複雑な所です。行者がおかしな導きをすれば神も狂って病まれる。

よく神明法楽で般若経を誦するのは空性を説く経典だからです。空観をもって熱悩を取り除く。

私は普段信徒さんに説法する時、できる範囲で結構ですよと強調している。信仰が生活を圧迫しては元も子もないし、無理をしても続かない。それでも先祖や神仏などに対しての向き合い方は大切にお伝えしている。

但し、修行の道を選択した者には厳しくある。私自身、決して順風満帆にはいかなかった。過去の反省も沢山あれば、理不尽な思いも相当してきた。胸張って言えるのは発心して以来、何時たりと雖も最後まで仏道を諦めなかった。

祖父の癌治療で高野山を下山せざるを得なくなり、都内の通信制高校に編入。始発から現場仕事に行き、帰宅したら日付が変わる頃までレポートを書く。アルバイト代は仏教書籍や仏具の浄財とした。加行灌頂後も修行を続けて各山諸師を訪ねて再三懇望して教えを請い、遅くまで自行に勤しんだ。今でも求法に各地へ足を運んでいる。いつの間にか荘厳が立派になり、外観は貧相なれども教化活動をしようと発起して開山に踏み切った。

開山してからも数ヶ月無収入が時折ある。ただ、生活や金銭のために仏門に入ったのでは無い。だからこそ苦しい時でも続けられる。そりゃ、同じ人間。現代社会で育ってきた訳で色情も理解できる。律僧としてはアウトだが、お付き合いもそれなりにしてきた。彼女がいようが、それでも最優先すべきは僧侶や神職ならば神仏で無ければ失格だ。勿論、彼女も大切にしなくてはいけないが。

このお弟子さんの最大の過ちは仏法を学ぶ姿勢が無かった一点。まともに教えを受けて実践していたら、心が動乱する事は少なくなる。霊能なんぞ仏門修行では何の意味もない、断言できる微塵も意味がない。何故、苦しむのか智慧とは何か。そこに正直に向き合い続けるからこそ、少し深く物事を洞察できるようになるのではと思う。それに修行は思い通りにいかない事を残酷なまでに思い知る事にも意味が有る。大体、修行を続けていると霊能は消える。仏道修行により神通が開発したりもするが簡単じゃ無い。少なくとも神通が具わる頃には人格的にも整って、思慮深い行動になる。巷の霊能関係は怪しい力を利用してる人がほとんど。

そして、正規の学びを避けるのにも関わらず法服袈裟を被着するなど、それこそ袈裟の意味も重みも理解していない。形だけで中身が無い。

私のお弟子さんも得度をしたばかり。己自身、未熟者だが先師の想いや信仰の姿勢は示せるかと思う。行者として生涯を捧げる覚悟、一大事だ。

書いていたら口語体になってしまいましたが、素直な表現としてご寛恕願います。

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