追善供養の心構え

法事とは、初七日からはじまる追善供養などの仏事、また年忌法要のことです。追善とは「追福修善」の略で、亡くなった方々の冥福を祈るために、善行を修することです。故人の年忌にあたり、祭壇を設けて僧侶を招き、供物をお供えし読経することが清き福徳となって、故人の仏果を増進することになります。さらに供養とは、供給資養の意味で本尊や亡者だけでなく集まった人々に対するもてなしも供養になります。私たちの善行で生じた功徳を亡者へ廻らして与えることを「廻向」といいます。

『地蔵菩薩本願経』には亡者の冥福を祈るために法事を営むことの大切さが説かれ、『大仏頂経』にはインドの王様が父の命日に釈尊と弟子たちを招き食事を差し上げて供養したことが書かれています。盂蘭盆会(お盆)も追善のひとつで、釈尊の弟子である目犍連尊者が僧侶を供養して亡き母を餓鬼道から救ったことによります。日本では聖徳太子が追善供養の大切さを説き、平安時代には一般民衆の中でも法事が行われるようになったと謂われています。『地蔵菩薩本願経』には、善行の功徳を七とすれば、亡者はその七分の一を受けるのみで残余の六分は生きている私たちが受ける(七分獲一)と説かれています。

法事を営むにあたり、供物を奉献することや読経したり、集った方々に食事を饗すことも供養です。それら善行がすべて、亡者や集う私たち自身への供養となるのです。親しい縁者との死別した遺族の想いが供養の心として芽生え、故人を追憶して敬い感謝する行事となりました。また、特定の廻向する方々だけの冥福を祈るのではなく、一切の有縁無縁の過去精霊も同様に果報を得られるように同体大悲の心で祈ることが肝要です。本尊や亡者、そして遺族の真心が一つとなり、素晴らしい功徳を生じるのです。

親なくして子は生まれず。今こうして生きているのは祖先より連綿と受け継がれてきた命の流れであり、私たち生命の根本です。謂わば根っこであり、その根を枯らして枝葉の栄える道理はありません。法事を営むことで自らの生命の根を培い、現在の生活が心豊かなものとなるのです。


供物に関することは下部のリンクから説明が読めます。